閉鎖的なこの町を飛び出して旅をした時の気持ちの記録




天気の子 雑感

 新海誠監督作品「天気の子」を見てきたので忘れないうちに書きたいことを書きました。ただただ書きたいことを書いたので文章がアレですが多めに見て。

 ネタバレが大量に含まれているのでまだ見てない人は今から映画館に行ってきてください。

 

 

(以下キャスト・スタッフはフルネーム敬称略) 

 

新海誠作品の特徴である背景の綺麗さはもうあれが当たり前みたいになっているが、相変わらず素晴らしいものだった。エンドロールで流れた美術の人数に驚いた。

 

・空中を3次元的に回転しながら2人が落下するシーンなど、複雑な動きやカメラワークも素晴らしかった。こんな絵が描ける人がいるのかと感動した。

 エンドロールで「モーションアクター」の項目があったが、どのシーンで使ったのだろう。こういうのは大体複雑な動きをするシーンで使うのだが、無知な自分には今一つ見当がつかない。まさかアクターを落下させるわけにもいかないし…笑。

 

・今回特に感銘を受けたのは脚本。まあこれも新海誠が担当しているのだが、僕が日々生活しながら思うこと、気づくことが登場人物のセリフにまんま当てはまって、見ていて「そうだよなあ!」「ほんとそうなんだよなあ!!」と思うことが少なからずあった。少し例を挙げるなら須賀の「大人になると大切なことの順番付けを間違えるようになる」とか安井刑事(声は平泉成)の「彼は人生を棒に振ってるわけでしてね・・・」以降とか*1。あと終盤の須賀の、世界を変えてしまったことに対して「自惚れんな!」もだが、これはちょっとベクトルが違う話で、長くなるので割愛。

 

・全体を通して、見ていて思ったのは新海誠は日常の中の美しさを切り取るのが上手い。これは他の論評とかでもしょっちゅう言われていることで、何を今さらという感じかもしれないが、僕はこの映画を見ていて、改めて心の底からそう思った。新海誠はそれぞれの人間にそれぞれのドラマがあるということ、そしてその尊さを知っているんだなと、はっきりとわかった。

 

・商品名や企業名がそのまま使われているケースが多々あった(日清のカップ麺(どん兵衛カップヌードル)や鉄道駅での会社名表示(JR東日本小田急)など)。これによって作品により現実味を持たせ、この物語が観客と同じ世界で起こったこと、ないし起こりうることなのだと思わせることができる。映画制作側はいちいち企業に許可をもらわなくてはいけないのだし、企業も企業で一アニメ作品に名前を貸すかどうかを決めるのに時間をかけるのは面倒に思うところもあるだろうが、こうして多くの企業が承認している所を見ると、新海誠作品においてはこれによってお互いが幸せになれるというのがわかっているのだろう。これが新海誠のネームバリューのなせる業なのだろうか。ずるいぞ新海誠!と思ったけど、それは今までの実績がやっと社会に認められたということなのだろうし、むしろこうした努力をした人の特権のような気もする。

 企業が名前を貸すことでの利点は上で述べたが、逆に欠点ではないかと思うこともあった。それは具体的な名前が登場したシーンで一瞬「あ、この企業からは許可を取ったのか」という方に注意が向いてしまうということである。今までの他のアニメーションでは、街中の看板や読んでいる本の名前などは、オリジナルの名前を少しもじったものになっていたりするのが大半で、見ている側としてもそれが当たり前になっていた。まだアニメーションを多く見ていない子供のころは、実際の名前をもじったものが出てくると親に「なんでこんな名前なの」と野暮なことを質問していたものだが、ある程度の数の作品を見るとそんな疑問は出てこないようになり、もじった名前に対しても「あーはいはい」くらいで流して、気にも留めなくなってしまう。この作品はこうした「当たり前」に歯向かうかの如く、実名をガンガン前に出してくるのだ。こうした実名に対しあれこれと要らぬことを考えてしまうのは、見ていてちょっと煩わしく感じた。実際の企業名をそのまま出すことで現実味を出すことができるのかもしれないが、企業名を見た瞬間に僕の頭に浮かんだことは、残念ながら映画制作陣と一般企業の名称使用許可の交渉であって、自分が生活している現実とは異なる、映画製作の裏側というもう一つの現実だった。

 しかし、今述べた欠点とやらはこれまでに「企業の名前を出さないのは、そういうものだから」という余計な常識を得た大人たちが抱く感想なので合って、これを欠点とするのは作品の責任なのか?本当に野暮なのは私たち大人ではないのか?とも考えさせられた。

 実名でリアリティを出す、という手法が真の威力を発揮するのは、アニメーション内での看板や商品の名前はもじったりなんかしないで実名のままやるが当たり前だ、という考え方が浸透してからなのではないだろうか。新海誠作品はそんな日を現実にしてしまうような気がする。

 

・VANILLAの求人カーをがっつり出してたことはすばらしいとおもいます!!だってそれが今の新宿なんだもんな!!

 

・音楽は前作に引き続きRADWIMPSが担当しているが、相性が抜群に良い。いやなんでこんな曲作れるんだよ、それでなんでそんな曲も作れるんだよ、なんで場面の展開と転調のタイミングが揃うんだよ、なんで見せ場と大サビのスタートが揃うんだよと、映画の制作過程、RADWIMPSの頭の中身などいろいろなことに興味が湧いた。新海誠が惚れるのもわかる。

 あとこの劇伴は自己主張を強く感じさせないのが凄い。劇中に歌詞付きの曲を流すとそっちに意識が持っていかれて、今一つな仕上がりになってしまうというのはありがちな話である。この作品では挿入歌が6曲(だったっけ?)と多くあるにも拘らず、どのシーンも意識を音楽に必要以上に引っ張ることなく、映像と音声の一つの流れを形作っていた。*2これがなせるのは新海誠作品との親和性の高いRADWIMPS故なのだろう。

 僕はRADWIMPSの音楽をよく聴くわけではないが、友人がカラオケでよく歌ってたのもあってちょっと好きなので贔屓目に見ているところがあるのかもしれない。客観的な評価なんてできないのだが、この作品の音楽をRADWIMPSが担当してくれてよかったと、確かにそう思えた。

 

・声優の話。メインキャラの声には本職の声優ではなく俳優を多く起用していた。こういうのには大体「大人の事情」が見え隠れしたりしていて個人的にはあんまり好きではないのだが、この作品では(有無は別として)大人の事情を感じさせない俳優たちの真摯な演技がみられた。小栗旬倍賞千恵子はエンドロールであー!と納得した。とても良かった。あと夏美さんもいいよね…。本田翼だったのか…。

 

・ここからはオタク的見地なのだが…声優で目立っていたのは花澤香菜佐倉綾音である。花澤香菜新海誠ファンを公言していて、言の葉の庭君の名は。の両作品に出演している。そういうのもあって今作もどっかで出るだろうなと勝手に思っていたらやっぱり出た。役名は「カナ」。自分の名前を使ってもらえるなんて、ファン冥利に尽きるのではないか(たぶん)。さて一方佐倉綾音と言えば花澤香菜ファンを公言(?)していて、その類ではいろいろと話題になる声優らしい。そこらへんはあんまり詳しくないのだが、ニコニコ大百科とかを見ればおおよそわかったつもりになれる。この作品では「アヤネ」という、カナの恋のライバル的なポジションの役を演じている。大ファンの「カナ」の恋敵を演じた「アヤネ」本人の感想が気になる所ではあるが、一番のポイントは物語終盤にある、保護施設の面会に行き名前を書くシーンである。そこに書かれた名前にすべてを持っていかれた。「「「「「花澤綾音」」」」」  …本当に演じた本人の感想が気になる所である。

 

・前作の君の名は。のキャラクターがちょこちょこだったり割とちゃんとだったりと比重は違えど出演している。瀧と三葉は分かったけど他の三人は気づかず、エンドロールで初めて知った。もっかい見なきゃな。天気の子は君の名は。の時系列で言うとどこになるのだろうか。三葉の名札が「Miyamizu」だったのが、引っかかるというか、そうなのか…というか、自分の感覚が正しいのか間違っているのかわからない何とも言えない気持ちになった。

 

・エンディングでは、普通のエンドロールの前にデザイン化されたちょっとおしゃれなキャストスタッフクレジットがある。これに名前が出るのはメインの声優、企画、監督などごく一部の人だが、これにはどういった意図があったのだろうか。このクレジットに名前が出た人もその後のエンドロールではもう一度名前が流れたし、特別扱いしたかったのか、それとも他の意図があったのかが気になる。別にこれに対して怒っているわけでは全然なくて、ただ疑問に思っているのである。己の思考力の貧しさに嘆いているのである。誰か教えてください……。

・これはただの羨望なのですが、「気象監修」ってめっっちゃカッコ良くないですか????俺もアニメーションの気象監修してエンドロールに名前を載せたいよ…。まずは勉強しなきゃね…。

 

 

・総括として、自分は新海誠の感性、これは美学、哲学、フェティシズムとかもろもろ、がとても好きだということがわかった。見に行って良かった。パンフレット買い逃したのが悔やまれる。

 

 

*1:正確なセリフは失念したが、内容はおおよそこんな感じだったはず

*2:個人的な感覚として、二重らせん、あるいは電場と磁場とか、そういうイメージ